「寛容な教育」平元文雄

 新年あけましておめでとうございます。

本年も「菩提寺サッカースポーツ少年団」をよろしくお願いいたします。

よくこのホームページに思ったことを書かせていただいているのですが、今日はサッカーの話ではありません。少し長くなりますが、読んでみてください。

「私は赤ちゃん」「私は二歳」(いずれも岩波新書)などでよく知られている松田道雄さんの本を久し振りに読み返してみました。小児科医をされていたので、育児関係の著書が多いのですが、教育に関わる内容のものも随分見られます。私は松田さんの平易でわかりやすい文章が大好きです。こんな文章があったので紹介することにします。



「寛容な教育」平元文雄

 子どもの頃を思いおこしてみると、正月の楽しさのひとつは、おとなたちの寛容であった。いつもは、子どもはお金をもってはいけないという親が、お年玉といって紙幣を紙袋に入れて渡してくれた。

お隣の恐いおじいさんもにこにこしていた。学校の式に行けば、先生方は、こちらの去年のいたずらを忘れてくださったようなお顔だった。帰り道には、紅白のおまんじゅうか、ミカンかを出口で、長い袖の着物を着た女の先生が渡してくださった。

世界中のおとなが、子どもに対して、あれほど寛容であったことは、正月以外なかった。

子どものときの正月に、希望があったのは、式の校長先生のお話に感動したためではなく、おとなたちがゆく手を妨げることをしなかったためのように思う。

何でもできそうな気がした。一生続けられそうな気持で日記もつけた。

その計が十日と続かなかったことは、もちろん、子どもの怠慢にも帰すべきであるが、おとなたちの旧態への逆戻りが、子どもの希望を失わせたということもあったように思う。

寛容ばかりで、子どもを教育することはできないだろう。子どもの怠慢を防ぐには、子どもに課題を与えて、それをやり通すようにさせなければならない。

しかし、子どもに希望をもたせるためには、寛容が基調として必要であると思う。その点では学校の教育も、家庭の教育も同じことだろう。

だが、寛容というのは、何をしてもしからないということではない。また、学校教育に、どこでもあてはまる寛容教育、家庭教育に共通した寛容的しつけというものはない。

教育というものは、個性がそだつのをたすけることだから、それぞれの子どもに適した、子どもの数だけの寛容的な教育としつけがあるわけだ。

算数と国語はよく理解するが、体育だけはどうしても、うまくなれない子にたいして、先生は、体育にかんして寛容であってほしい。へたな跳躍しかできない子を、この子は体育が不熱心だと決めつけないで、何かできることがあるさ、という目でゆっくり眺めていると、その子が案外ピンポンはうまいというようなことが見つかるかもしれない。

子どもは自分の不得手なところは、よく知っているものだ。それを先生から言われると、もう自分はだめなんだという決定を子どもが、自分に対してする。寛容というのは、子どもが自分自身に対して早まった決定をさせないことといってもいい。

親もまた寛容でないために、子どもの学習意欲を摘み取ってしまうことがある。子どもが、親の熱意に動かされるに違いないと思うのは間違っている。叱りつければ、恐れて、勉強するようになると思ってはいけない。

子どもが怠慢にみえるとき、それを子どもの全人格の姿であると思わず、どんな学科で、またどんな課題で、子どもが嫌になっているのかを見きわめることだ。

おまえのような人間はだめだ、という叱り方を、ピアノが嫌いなのにピアノの稽古をやらされている子に、してはならない。人間は、無限の能力の宝庫であって、ひとつの能力の足りなさによって、未来が閉ざされるものではないという信念こそ教育の根本だ。

子どもに対して寛容であるだけでなく、先生は親に対し親は先生に対し、子どもの教育に関して寛容でなければならない。ことに先生は自分の子の「欠点」について寛容である親を、身勝手な人間と思わないでほしい。

(松田道雄の本2 教師の天分・子どもの天分より引用)



素敵な文章で私は気に入っています。寛容,謙虚、尊厳、忘れてはならないと私は思います。

輝く夢を持って未来に歩むことはもう無理かもしれませんが、地に足をつけて、充実した過去を刻んでいくことは、まだ、できそうな気がしています。


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コメント: 1
  • #1

    藤田コーチ (金曜日, 02 1月 2015 12:01)

    あけましておめでとうございます。
    今年もよろしくお願いいたします。
    全ての子供たちが、やる気満々で来ているのではない、そう感じる事も大事ですね。