「親バカ」平元文雄

「親バカ」平元文雄

 今日は私の子どもの話をしたいと思います。
 
 皮膚湿疹のため、生後1ケ月目、病院へ行った際、医者が触診し、「心臓疾患がある。精密検査をする必要がある」と言われました。すくすくと育ってきていると思っている私にとってショックは隠せませんでした。


 すぐに検査入院。カテーテル検査。生まれたばかりの子が、股から造影剤を打たれ、検査を受けるのは耐えがたいものでした。検査で子どもに心臓疾患が三つあることがわかりました。手術はもう少し大きくなり、体力がついてからということになりました。

 

 その後、なかなか身体的に成長せず、手足はやせ細ったままでした。体重は増えず、お尻は象のようにシワシワで、ほとんど肉が付きませんでした。また、よく風邪をひき熱を出しました。40度の熱が三日も続いたり、よくなったかと思えば、またといった具合でした。
 熱を出してしんどがっているのは、その呼吸や心音の速さからも容易に想像することができました。傍らで体を休めるわけにもいかず、一晩中、抱いて過ごしたこともありました。職場に出るのが本当につらかったです。仕事をしていても、また、家から電話がかかってくるのではないかという気がしていました。
 
 最初、体重が10kgになるのを待って手術する予定でしたが、病状が進んできたため、体重の増加を待たずに手術を受けました。1歳10か月の時でした。
 手術には新鮮血200cc20本必要ということでした。必ずしも手術を受ける側が用意する必要はなかったのですが、同僚や近所の人たちが協力してくださいました。感謝、感謝でした。
 延々、7時間の手術を無事終え、子どもは帰ってきました。体にたくさんのチューブを付けて。そして集中治療室に入りました。
 手術は成功しました。手術の後も主治医の先生は、昼夜を問わず、こまめに状態を尋ねに来てくださいました。あらためて、医師の仕事の大変さ、偉大さを知らされました。
 子どもは順調に回復し、その後通院を繰り返しながら、小学校入学を迎えました。

 

 私は、心臓病をはじめとして、数々の病気で苦しんでおられる人たちに、せめて自分にできることはと思い、感謝の気持ちも込めて献血を続けました。献血回数はその後300回を越えました。

 

 子どもは小学校に入り、運動制限も解けた4年生から、地元のサッカースポーツ少年団に入りました。
 6年生の時でしょうか、郡選手権大会の決勝で、わが子のチームと菩提寺が顔を合わせました。
 朝から、私はそわそわしていました。試合開始前、まわりからは、「平元さん、今日は両ベンチの真ん中に立って声を出したら」と言われました。
 私は勿論、菩提寺のベンチに入ったのですが、なんと目は自分の子どもの姿を追っていました。
 その試合は私の子どもの2得点で確か3対2で私の子どものチームが勝ち優勝しました。でも、思いは確かに複雑でした。
 スポーツ少年団の指導者は地域の方がされることが多いので、こんなことはめったにないでしょうが、中学校や高校のクラブ指導を続けておられる先生方は、こんな経験を持たれた方もきっとおられることでしょう。

 

 世の中に思ひあれども

 子をこふる思ひにまさる

 思ひなき哉
                      
 リリー・フランキー

 「東京タワー オカンとボクと時々オトン」より

 私の子どもの障害について書くことはためらいがありました。でも思い切って書いてみました。
 私の子どもの障害は手術によって完治しました。しかし、手術などできない障害も数多くあります。両親のご苦心は言語を絶するものがあると思います。
 もうずいぶん前の岩波新書ですが、「目の見えぬ子ら」という赤座憲久先生が書かれた本があります。
 目が見えないという障害を持つ親御さんのわらにもすがる思いや、障害に負けずに一生懸命生きようとする子どもらの姿に強い感銘を受けたことを思い出します。子どもたちの作文も いいです。ぜひともご一読ください。