「創りあげるということ―劇活動」平元文雄

 今日もサッカーのことではありません。少し長くなりますが最後まで読んでいただければ嬉しいです。

 

 以前、びわこ学園の初代園長である岡崎先生のことに触れました。先生がお亡くなりになられてだいぶたつのですが、なくなられた後、追想集が医療図書出版から出ています。県立図書館にありましたのでお借りして読んでみました。岡崎先生と親交のあった方々が先生との思い出を綴られています。その文章も先生の人柄がにじみ出ていて素敵なのですが、私は最初に綴じられていた1枚の写真に目がいきました。それは先生が最初に勤められていた近江学園での職員劇『彦一ばなし』の主役、彦一役をされていた姿でした。

 

 皆さんもご存知だと思うのですが、近江学園は終戦後すぐに、大津市南郷の地に糸賀先生や田村先生、池田先生らが中心となって創立された障害を持った子らの施設でした。「この子らを世の光に」という理念は素晴らしいと感銘を受けますが、この写真を見ていて、忙しい業務の中で、職員劇を続けられたということに感嘆したのです。

 

 劇活動は総合芸術です。キャスト、スタッフ、効果音楽、大道具、小道具、背景、照明などの分野が協力しあわないとできないものです。また、演じきった後の達成感は言葉にならないものがあります。しんどいお仕事の合間を縫って劇活動を近江学園で続けられたのは、集団としてまとまっていくには劇活動に意味がある、有効であると思っておられたのでしょう。

 

 私の大学時代、私が住んでいた平津が丘寮は寮単独で演劇祭がありました。大津の県庁前にあった滋賀会館の舞台で発表をしていました。全寮生を3つに分けてそれぞれのグループで発表するのです。ちょうど秋の深まる頃からの練習でした。強制的な参加でしたが、今から思うと、嫌がらずみんな参加していましたね。それだけ、伝統的に大事にされてきたのでしょう。上級生も、衣装作りや本番では照明係などに参加してくださいました。

 

 1回生では『火』という劇に機関士役で参加しました。「この島は無人島・・・」まだセリフが出てきます。2回生では『人間蒸発』という劇の演出をさせていただきました。京都の駸々堂に劇の台本が置いてあってその中から選んだと思います。この劇では本番前にキャストの二人が行方不明になり、かなり慌てたことを思い出します。幸い見つかり、事なきを得てよかったのですが、まさしく、「人間蒸発」だったなーと終わってからみんなで言い合ったものでした。

 

 私が勤めた三雲養護学校紫香楽校舎でも職員劇に取り組みました。職員の中に本当に演劇好きな先生がおられていろいろ指導を受けながら、『オズの魔法使い』や『ブレーメンの音楽隊』などの子ども向けの劇をしました。かぶりものをはりぼてで作ったりなどと小道具、大道具づくりも楽しかったことを思い出します。自分たちで作ったものは愛着があるのです。校舎の子らはもちろんのこと、本校の子らや地域の人にも見ていただきに出かけました。

 

 私が養護学校から菩提寺小学校に移った年、5年生を担任させていただきました。小学校のことは全く分からなくて、廊下を歩きながら指導書を見ていたほどでしたが、一つ思い出があります。

 

 滋賀県では5年生の子らにはフローティングスクールがすでに始まっていました。今はよくわかりませんが、当時、夜の集いがあってクラスごとに10分間で何かせよということでした。私はこの10分間をまるっぽ子どもたちに託しました。「きみたちでかんがえて」と。子どもたちは寸劇をしてくれたみたいです。当時の写真にその劇に着る衣装を持って乗船する姿が残っています。

 

 私は残念ながらその寸劇がどんなものであったのか思いだせません。放課後も残って練習していたのでしょうね。もしこのHPを読んでいる人で知っている人があれば内容を教えてください。

 

 とにかく、5年生ともなれば、そんな力があるのだなーと感心しました。老齢の人が多くなってきています。もしできうることなら、寸劇でいいから学級活動の時間などを使って劇を作りあげ、地域の老人施設などを慰問して発表するなんてことができたらいいなーと思います。私の勝手な思いですが・・・。

 

 最後にサッカーも劇もとても似通っていると思います。自分で考えることの大事さ、みんなと力を合わせなければできないということ、また、やり遂げた後の達成感などです。

 

 甲賀市信楽町にある多羅尾小学校は本当に小さな学校ですが、子どもたちと先生方が一体となってオペレッタに取り組んでおられたということを聞きました。

 

 そんなよき伝統をこれからも引き継いでいってほしいし、小学校でも高学年なら余裕があれば劇活動に取り組んでほしいなと思って書いてみました。